灰褐色の春告鳥がうたうように囀る朝、風鈴高校の前では生徒たちがまばらに歩いていた。進級すると、腕の白練の輪がひとつずつ増える。憧れの先輩に一歩近づいたその印に、新二年生、新三年生は足取りも軽やかに浮き足立っていた。
ひと月もゆうに経ち、風光るころになればその証にも慣れてくるもので、教室で見かける二本線に目新しさはなくなっていた。
近ごろの初夏の枝切風は爽やかなだけではなく、肌をねっとりと撫でるような生ぬるさが勝つ。それでも、ざんざんと擦れる新緑の音は耳に心地が良い。青葉の合間から照らしている太陽は春過ぎとは思えないくらい輝いて、早くも半袖になっているまこち町の人々の腕を焦がしていた。
ついこの間まで放課後になれば茜色に染まっていたはずの教室は、十六時を過ぎても昼と変わらないほど輝くあさぎ色を見せていた。
窓の外には目もくれず、蘇枋が一歩前へ踏み出し、桜に近づく。歩を進めるごとに、桜も同じぶんだけ後ずさる。だが、それは狭い教室の中でいつまでも続けられるわけもなく、教卓ががたりと鈍い音を立てて桜のゆくてを阻んだ。
「おい……! 今日のお前、変じゃねぇの」
ゆがんだかたちで微笑みを貼り付けた蘇枋の顔が、ぴくりと動く。だが、じっと待ってみても返答はない。
「んで黙ってんだよ!」
西陽に照らされてマゼンタに輝く瞳に、吸い込まれるほど見つめられていた桜の顔がたちどころに朱華に色づく。燃え上がるような顔の火照りに、桜の脳内は騒然とした。
「ああ、やっぱり……君のセンサーは優秀だね」
「は、はぁっっ⁉ ふざけてんじゃねーぞ、お前はいつもいつもオレのことからかってばっかで……っ」
普段のように翻弄されてばかりではならないと拳を振り上げようとしたところで、蘇枋が自身のジャケットの裾を指先に絡める様子が桜の目に飛び込んでくる。
────まさか、冗談じゃないなんて言わねーよな
「……オレも、君のことをからかってるだけのままでいたかったんだけど」
このまま手をあげれば互いの顔に触れるくらい近いその距離で、蘇枋が弱りきった表情になり、眉を下げて笑った。
いま蘇枋に触れてしまってはいけないと、身体中が警鐘を鳴らす。桜は身体を無意識のうちに逸らし、少しでも距離を取ろうともがく。喉がからからと張り付いてしまったのか、声がうまく出せない。手の甲を口に当てる。とどろく心音がどうか目の前の相手に聞こえないようにと、桜は指の先にまで神経を尖らせた。
「────桜君。一度だけ、言うね。……オレは君が好きだ。どうかオレと、付き合ってくれないかい」
どくどくと耳の内側に流れる血の音が反響してうるさいはずなのに、蘇枋のその言葉だけは一言一句漏らすことなく桜に届いた。最高潮かと思うほど熱く感じていた頬の火照りは、底なしに熱を持って桜を内側からうずかせる。
窓の外では、薫風に煽られて木の葉たちが枝ごと大きくしなる音がしていた。桜はつま先からかかとに至るまで、足の裏全てが錫色のタイルに張り付いてしまったかのようにその場から僅かなりとも動くことが出来ない。
カチコチと秒針の動く音がやけに大きく教室内に響いている。口をもごもごと動かし続けても、次の言葉を紡ぐこともまたできなかった。ただでさえ他人から向けられる好意にめっぽう弱い桜にとって、その思いの丈は────ましてや同級生の男から向けられている言葉に、なんと返したらいいのかなんて検討もつかずにまごつく。不快感のたぐいは一切なく、おもばゆさで胸の内側のざらざらとした部分がくすぐったい。
余裕綽々が板につく蘇枋でさえこの瞬間ばかりは左目の光がゆらゆらと蠢いている。蘇枋の髪の先にまで表れる緊張が桜にも誘発されて、二人きりの教室一帯の空気が氷の表面のように張り詰めていた。
耳の縁までえんじに染まった顔でぐるぐると表情を動かし続けていた桜だったが、ふいに目もとに陰が落ちる。その様子が蘇枋の目に入った時には、桜の口がこわごわと開かれていた。
「その、『付き合う』ってのは、……相手のこと幸せにしてやれねぇとダメだろ。オレには他人を、そんなふうにしてやれる想像がつかねぇ。……お前のことが、嫌いとか……告白、が嫌だってんじゃねーぞ」
蘇枋の気持ちを大切に扱うように、慎重に、一言ずつ。桜なりに言葉を選んでゆっくりと紡ぐ。蘇枋の揺れ動きつづける瞳から視線を逸らすことなく、正面から真っ直ぐに告げた。桜が話し終わると、蘇枋は瞼を伏せて、緩慢な様子で頷いてみせた。薄い撫子色の唇が、数刻前と変わらない様子で弧を描いた。
「……君は、いつだって優しいな。ごめん、困らせちゃったね。忘れてくれるかい」
和やかな空気を醸し出し、蘇枋は笑みを浮かべる。蘇枋の打って変わった様子に、再び壁が出来たことを感じた桜の胸にはちくりと針が刺さったような痛みが染みた。べつに困ってなんかねぇよ、と視線を逸らした桜がぽつりと溢せば、蘇枋は軽やかに礼を告げて先に教室を出て行った。
ひとりになると、途端に外のざわめく声が大きく聞こえるようになる。
どれだけの時間が過ぎていたのか、刻々と珊瑚色に移り変わっていく教室に桜は取り残されたままでいた。ほんの少し前、教室に二人で入ってからの会話が最初から再生されては、泡のように消えていく。鴉の鳴き声が名残の空高くから降り注いでいた。
◇
燦々とアスファルトを照らす太陽は真夏の代表格である八月が過ぎさってもなお、まこち町じゅうに猛暑をもたらしている。記憶の中にあったはずの最高気温を毎年やすやすと塗り替え続け、もうまもなく四十度を超える日が来るのではないかと人びとは辟易する。
チャットアプリの友人の数が増え続ける桜のスマートフォンでも────かつてのように一七七ではなく級友に教わった天気アプリが────毎日きっかりと夕方六時に天気を通知していた。
校門をくぐり抜ける白いシャツの群衆にジリジリジリと夏の終わりを告げるアブラセミの声が追い討ちをかける。七月下旬の終業式の時分には、誰しもがひと月以上もあればなんだって出来ると思う。だが、八月は駆け足で過ぎ去り、あっという間に始業式がやってくる。毎年のことで代わり映えもしない気持ちでさえも、もう今年で終わりだ。
昨年にあたる、二年生の夏休みで桜は著しいほどに身長が伸びた。楡井の予想通り、もともと大きかった足に見合うほど────その足のサイズさえも一気に伸びて卒業生の梅宮たちと並んでも遜色のない背丈になっていた。その時からも一年ほど経ち、身長に合わせて体格も少しずつ様変わりした。肩幅がぐんと広くなり、胸板もぶ厚くなった。
名実ともに、誰もが一目を置く「総代」となった桜が廊下を歩けば、下級生たちは湧き立つ。いっぽうで、その隣に立つ蘇枋へ対する下級生たちの声は───色の違った、盛り上がりを見せた。
「シャツのボタンが取れかけているよ」と蘇枋が下級生のワイシャツにしなやかな手で触れた日には、その一年生はおろか、周りにいた級友までもが匂いたつあだっぽさに被弾する。
蘇枋が横を通り過ぎれば、その甘やかな芳香が誰も彼もの鼻腔をくすぐり、記憶に刻み込まれる。高い香りに誘われて視線をやれば、その先では蘇枋が流麗な所作で同級生や下級生に稽古をつけている。明眸に惹かれるものも、ただひとりを除いて太刀打ちできない雲の上の強さを目にすれば、風鈴生らしく自分ともいつか手合わせをしてほしいと焦がれた。
所作にも、風貌にも、美しさに磨きがかかった蘇枋は役職のつかない下級生からは声もかけられないほどの手の届かない存在で、陰ながらのファングループまであるらしいと楡井のノートにはしかと書き込んである。総代の桜を慕うもの、その補佐をする蘇枋を慕うもの、二派でどちらがより至宝であるかの口論になることまであるのは、校内でも有名な話だった。
そんな後輩たちを尻目に、蘇枋の横で胸の内を震わせているものがいた。
夏休みが明けても肌の色を寸分も変えることなく洗練された表情で登校してきた蘇枋を、下級生とおぼしき生徒が校舎を入ってすぐの場所で引き止める。遠巻きから見る群衆からも汗が止まらないほど緊張した様子がうかがえるその下級生は、言葉につかえながらもなにやらぽつりぽつりと話し始めているようだった。蘇枋は後輩を焦らせてしまうことのないよう、控えめに温柔な笑みをたたえ、話し終わるのを待っていた。
どこかへ話す場所を移そうか、と蘇枋が提案し、下級生の背に手を当てようとする。連れ立って歩きだそうとした瞬間、ふたりの眼前には長ランの裾がたなびいて、視界が遮られた。
「そ、うだい」と下級生がせわしない様子で手をばたばたと動かし始めても、目の前に現れた桜はその生徒には一瞥もくれずに蘇枋の腕を取る。
そのままずかずかと階段へ進んでいく桜に何を言っても無駄だろうと踏んだ蘇枋は、顔だけ後ろに振り返ると下級生に目くばせをした。
突如現れた総代と蘇枋が視界から完全に消えてしまうと、くだんの下級生は桜の威圧感に負けたのか、蘇枋のつややかな視線にあてられたのか、昇降口のほど近くの廊下でへたりと膝をついて呆然と虚空を見つめた。
はやる気持ちのまま階段を駆け上がり、三階の隅にあった空き教室に蘇枋を押し込む。もうすぐ朝のホームルームが始まってもおかしくない時間で、登校してくる生徒たちのわさわさとさんざめく声がドアで隔てられたすぐ向こうから聞こえる。
興奮からなのか、桜の白い丸襟のシャツは薄く湿り、肌の色が透けて見えた。両の瞳の色がいつもより深く濁って揺れ動く。
「あの子、かわいそうじゃないか」
血がのぼり、フーッと肩で荒く息をする桜を宥めるように蘇枋は手を伸ばす。
「この教室、懐かしいね。……覚えて、る……ッう」
桜は顔の横に伸びてきた腕を掴むと、落書きまみれのざらざらとした壁紙に勢いよく蘇枋の腕ごと縫い付けた。
「……壁ドンなんて、男前になったね、桜君」
「…………忘れるわけ、ねーだろ」
うん?と蘇枋が小首を傾げれば、ピアスのタッセルがしなり音を立てた。麻のチャイニーズブラウスにピアスが擦れて揺れる。教室の窓から入ってくる、すでに暑さを伴った朝日に中心の珊瑚が煌めいた。
「なあ、お前だって、覚えてんのかよ。あん時の、答え。いまからでもひっくり返すの、間に合わねぇか。……お前が、他の奴らに騒がれて、惚れられていくの、見てられねーんだよ」
「ええ、っと」
面食らったように、蘇枋の眉尻がわずかに下がる。二の句が継げない蘇枋の指に、壁が削れるほどの強さで押し付けていた桜の指が絡む。鍛えられて太くなった腿を蘇枋の脚の間に入れ込み、身体を翻して逃げられてしまわないようにがんじがらめに拘束する。頭ひとつぶん高くなった目線で、瞬きもせずにぎらぎらと蘇枋のロードライトの隻眼を見据えている。
「今なら。……今なら、お前のこと幸せにするって言える。あの日振り払った手を、後悔しなかった日がねーんだよ。……オレと、付き合ってくれ、蘇枋」
言い終わるや否や、待ちきれない様子で目の先の蘇枋に桜の顔が迫る。────あと少し。鼻先が触れるほどの距離を越えれば、口付けられるだろう、そう思ったすんでのところで蘇枋が息を短く吐き、頬を緩めて桜の唇に人差し指を添えた。期待と興奮が隣り合わせになっていた桜の身体が、指先ひとつで制止されてつんのめる。
「〰〰〰ッ、にすんだよ……!」
「そんなに強引だと嫌われちゃうよ」
下から見上げる瞳は、己の見え方をこれでもかというほどに理解している面持ちで、桜の腕を震わせた。
「……もう、オレのことは好きじゃなくなったのかよ」
「あは。やだな、そんなこと言ってないじゃないか。焦らないでくれるかい」
つんと唇を尖らせてどっちだよ、とむくれる桜の頬に指を移動させる。
「オレのこと、どう思ってるのか聞いてないな」
目尻をきゅうっと下げ、蘇枋が相好を崩した。怒っているわけでも、ましてや拒絶されているわけでもないことを桜は飲み込む。
「っ! くそ、やっぱ意地わりぃだろ、お前……。好き、……好きだ、蘇枋。……なあ、もう……いい、か」
「ふふ、ありがとう。喜んで、総代さん」
蘇枋の瞼がおもむろに閉じられる。長くゆるやかに伸びた睫毛に吸い込まれるように近づいていき、そっと唇を塞ぐ。
ぐい、と桜が唇を押し当てれば、蘇枋は苦しかったのか、口がほんの少しだけ開く。どうすればいいのかわからず固まる桜の頬を両手で掴み、蘇枋がゆるりと舌先を入れる。舌同士を突き合わせるように触れさせたのち、ゆっくりと絡め合わせる。
後から後からとどまるところを知らず唇を重ね合わせつづけたのち口を離せば、ねっとりと糸が引く。
蘇枋がたどたどしく目を開ければ真っ赤な顔で息をあげる桜がそこにはいた。
「総代になってからの桜君てば、めっきり格好良くなってしまって手が届かないかと思ってたけど────やっぱり君は可愛らしいね」
表情をほころばせた蘇枋を見て、桜はじたばたと身体を動かして抗議の姿勢を取ろうとする。
「っるせぇ! お、お前だって………」
「オレ?」
慈愛に満ちて、とろけるように笑う蘇枋の視線と桜のそれが絡まりあえば、ふたたび教室内の空気の温度が高まる。
今度は触れるだけ、と思っていたのに蘇枋の後頭部をがっしりと掴んだ桜は長い時間をかけて口内を貪った。
一限目のはじまりを告げるチャイムでさえも、二人を遮ることができない。ふわりと揺れるカーテンの奥で、暑天に堂々と浮かぶ入道雲が教室のなかを見つめていた。
2024/9/1 GOOD COMIC CITY30 大阪
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